――永い、永い時を彷徨って来た。
騰蛇にとって、己の『形』とは意味を持たないものだった。初めて主人に出逢った時、蛇の姿をしていたのは、それが意識せずに取れる最も楽な形だったからであり、己が本性であるかどうかなど、自身にすら解らなかった。狭く暗い封壺の中に籠められた生命は無数。それを喰らって喰らって、喰らい尽くして最後に残っていたモノ――それが己だった。蛇もいた、蟇もいた、蛭も蜘蛛も百足もいた。すべて喰らった。喰らって、喰らわれて、――元が何であったかなど、考えるだけ無駄というものだった。ただ、己が其処にある。それ以上の意識も意味も価値も、彼の中にはなかった。
同様にして、性の概念も彼にはなかった。男か女か――雄か雌か。生殖を志向する本能も持たなくなった彼には、必要のない意識だった。あるいは、それこそが雑多な生命の混ざりあった末の後遺症であったのか。そんな彼が人型を取り、尚且つそれが女体であったのは、偏に主人の命があったから。後は、……その方が理解できるかと思ったからだ。より主人に近い形で、主人と同じ性であれば、主人の思考を――その、望みを。
主人・水無瀬の命に従い、その言を守り、その望みを達する。可及的速やかに。それが騰蛇と呼ばれる彼の至上命題であった。絶対唯一の、生きる意味――否、其処に在る訳であった。
そのために選んだ女身の人型であったが、それだけでは必ずしも主人の意に先んじて動くことが出来ないのを悟り、騰蛇は易々と女の身を棄てた。これではない、そうではない。女であるだけでも、まして人型であるだけでも足りないのだ。彼女の指が指し示す、その意図に先んじて動くには。自覚は激しい焦燥を伴って、騰蛇と呼ばれる彼の意識を焦がした。
足りない。これでは足りない。けれど、何が足りない? 反問する意識の中で、ジリジリと焦燥だけが降り積もっていく。それは彼が裡に宿る主人の身をも焦がす程。
「……騰蛇、熱い…」
そう、主人に嘆かれるようになってようやく、彼は自覚した。己が裡にある感情を。その想いの名を――嫉妬と言うことに。その頃、すでに主人の傍らには、彼女が夫と選んだモノの姿があった。かつて彼女が選んだ相手とは違う、人ならざるモノ。その存在は極めて己に近しく、――式神の第一位としての座も、いつしか奪われていた。悔しいと妬むことすらできなかった。何故なら、己の方が劣っていると判っていたから。能力の多寡ではない。主人の意を汲み、叶える速度に於て、既に。
何を思う間もなく相手の間隙を埋め、その意に先んじて身は動く――その姿は恰かも二身で一体の獣だった。彼らの前では己など、主人に付属する道具でしかなかった。卑屈でなく騰蛇は、そう思った。
――何だ。何が違う。何が足りない。力でもない、形でもない、まして性でもなく、人か獣かでもない。魂が灼けつくほど想い悩み、考え抜いて辿り着いた答え――それは、ごく簡単な一事であった。
「――騰蛇?」
スルリ、と頬を撫で、離れていった指先に、騰蛇はキロリ、と瞼を開いた。今の彼は主人と同じ人型を取り、けれど性別は違う男の姿をとっていた。主人に命じられたからではない。この処、彼は常にこの姿だった。
「ずっと眼を閉じているから、眠っているのかと思った……」
そう言った主人は、微笑みを浮かべて腰を降ろし、褥に座す傍らへ彼を誘った。
「おいで、私の蛇。愛しい朽縄――…」
その手招きに合わせ、騰蛇は膝を突き、主人の傍らに侍る。淫蕩な、女の顔をした相手の傍に。
「フフ…、オマエは私のモノ。私の式神。――そうだろう?」
差し伸べられる腕に応えて身を傾げ、抱擁する胸の中に顔を埋めようとする騰蛇に、主人は甘く囁きながら咒をかける。彼を絡め取ろうとする咒を。刹那、騰蛇の蛇眼に嵌まる縦長の瞳孔が、キュウ…と細まったことに、彼女は気づかなかった。
「違う。」
「――え?」
問い返した女の声は、直後に昇った火柱の音に掻き消された。
「ギィイィイイィィイィイ――ッッ……」
聴くも無惨な絶叫の下、主人の貌をした女の皮が、そして騰蛇自身の顔さえもが燃え上がり、焼け落ちていく。しかし騰蛇は――頬を熔かし、瞼さえも剥がれ落ちる炎に半顔を舐めさせていながら、眉ひとつ顰めず、淡々たる表情のまま、こう言った。
「――違う。主人が、水無瀬が吾に求めるのではない。吾が水無瀬に欲するのだ。」
いつも、いつでも――。それが騰蛇の辿り着いた『答え』だった。
相手の思考を読み、その意を叶えようとしても、それは常に後手後手に回らざるを得ない。相手の望む処を識り、その意を叶えんがため己に為し得ることを図り、そうなるべく動く。これだけのプロセスが必要となるからだ。だが、己の欲する処のみを為せば、その過程は一足飛びに短くなる。何処までいっても所詮、他者でしかない相手の思考を読む手間が省けるからだ。
吾は水無瀬を愛している――それだけで良いと、既に騰蛇は想い定めていた。他に、何も要らない。
愛する彼女のため、すべてを差し出す。この身の何も彼も、すべて。後に何も残らなくとも、それで本望だと騰蛇は感じていた。この身のすべては彼女のため。そして、己の為すべきは――彼女のため、自分がしたいと想う、すべてのこと。それは極めてシンプルで大胆な、正解の在処だった。
「消えろ。水無瀬は吾に何も求めない――」
……吾が水無瀬に何も求めないように。恬淡と、乾いた口調で言いきった騰蛇の科白を皆まで聞くことなく、彼の禁域に触れた『敵』は焼き尽くされていった。後には灰すら残さず消え失せた影を見送って、騰蛇は焼け爛れた顔の双眸を閉じた。
『……騰蛇?』
身を包む闇から響いた呼び声に、ゆっくりと騰蛇は意識の鎌首を擡げた。
大丈夫かと言葉にならぬ波動で問われ、彼は笑みにも似た気配を放つと、音もなく主人の体内に在る身をくねらせる。腕から肩、鎖骨を越え、脇腹を這って鳩尾へ。そこから一直線に下って子宮へと到り、狭い胎内で彼がとぐろを巻いた瞬間、弾けた快楽に主人の身が震えたのを覚る。
『……ッ、馬鹿…』
詰る声は彼の行いを咎めるものでなく、むしろその逆。甘い艶を帯びた溜息に、己の行為が主人の意に叶っていたことを悟り、騰蛇は更に身を震わせる。
洩れる吐息、熱、甘い蜜と汗の滴り、そして――悦。そのどれもが騰蛇の糧であり、歓びであった。
愛している。それ以外に、何も要らない。喩え、それが儚く消える幻影のようなものだったとしても。……燃えるように熱く狭い暗がりの中に身を置きながら、騰蛇は敵を討ち滅ぼすために負った傷の痛みすら感じず、想い潜めていた。ただひとつ、己を此処に在らしめる、存在の訳を。
【LOOSE】 Lot.6 - LOVE PHANTOM -